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扇屋について

 文化七年(1810年)12月、本町通りの道具屋喜助宅から出火した火は近隣16戸を焼き尽くした大火でありました。

 おりしも六代目重兵衛は商売の処点を探していたので、焼け跡の一部を買い入れ、翌八年には、そこに居を構え、味噌、醤油、油類を販売する商人として商いを始めたのであります。後々、店の帳箪笥の引き出しの中から駒型の門鑑札が発見され、それには藩の焼き鏝(ごて)が押印されていたのを見ると、地域の商人として大いに活躍していた何よりの証であろうと考えられます。

 そ の時の店構えは、七代目六治良の作成した「家相転調図」には“本宅ハ文化八年未ノ普請”と示され、広い通り庭にはシメ場、イリ釜等が設けられ、奥庭の方に は、油蔵、味噌蔵、物置等があり、と示されておりこの時代には商いも繁盛し、藩の御用商人として隆盛を興っていたと考えられます。

 しかし、大槻家はもともと商人の家系ではありません。 それを語るには、二代目まで遡らなければなりません。

 扇屋という屋号が付いたのは、二代目の弥吉高晴が武士を捨て、与治衛門と改名し、大工と成ったことに端を発するのであります。

その時に戸主として、屋号を扇屋、名を重兵衛と名乗る事を決め、以来「扇屋重兵衛」という戸主名は、代々世襲される事と成ったのであります。

 又、扇屋重兵衛は人望も厚く、町々の人たちからは、常には「おぎじゅうさん」と称され親しまれていた様であります。

 更 に八代目惣兵衛はその家業を良く守り、評判を重ねていったのであります。只、残念なことに男子に恵まれず、愛娘「とも」が年頃に成るのを待って、以前より 大槻家に入籍をしていた八津合村は古和田治左衛門が三男重兵衛と夫婦となり、九代目扇重を継がせ戸主を名乗らせたのであります。

こんな話があります。

 嘉永5年(1852)に七代目六治良が愛娘「とよ」を伴って、身延山参詣をし、その帰路に江戸見物をした際、この親子は綾部藩江戸屋敷に8日間滞在させてもらったとの記がある処から、江戸藩邸でも顔が利く程の商人であったと考えられます。

 翌年嘉永六年(1853)、時代は大きく変わりました。「泰平の眠りを醒ます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず」、ペルー来航「黒船来る」であります。

 四隻の黒船を率いて浦賀に来航して以来、日本国内は騒然としました。幕府は対策に大いに苦慮し、歴史が示す通り300年続いた幕府はこの混迷の時代を引きずりながら明治維新へと歴史が動いたのであります。

 そんな流れの中で翻弄されながら文久3年3月(1863)綾部藩主九鬼隆備(たかとも)は幕命を受けて、京都の北の入口塚原陣屋へ出陣し、丹波方面へ向かいました。

 更に翌元治元年2月(1864)には御所の警備御番(ごばん)に、7月には丹波と山城との国境老ノ坂に出陣し、間をおかずして7月末には蛤御門の変にて再び御所の警備御番、引き続いて塚原陣屋に戻っています。

 まさに、幕府の断末魔さながらの時代であったのでしょう。

 因みに、この時の隊長は九鬼隆一(16才)、参謀は藩の儒者 近藤勝直と建部隆疆(りゅうけん)(28才)の若者同士であったと示されています。

 この様に、情勢判断が困難を極めたときに、幕命に従いつつも朝廷に同調し、藩を守らんがための尽力は如何許り(いかばかり)のものであったと考えられます。

 この間に於いての藩の出費は大変なものであり、その財政の一助として援助し続けたのが九代目扇重でありました。

 藩はその扇重の功績に対して感謝の意を表し、長短2本の槍と薙刀を贈ったのでありました。

 従って9代目扇屋重兵衛は、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治(1847〜1868)と変転極まりない、幕末動乱から維新にかけて藩の支えと成っていたのでありましょう。

 また、家業のほうも種油、味噌、醤油、と手広く商いを行い、ついには何鹿郡随一の豪農羽室嘉右衛門と相呼応するまでになり、大庄屋の羽室一族、町年寄の大槻一族の一員として扇重の名を後世に伝えたのであります。

(文責  梅原陽介)